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祈りの習慣化

 

祈りは非常に大切な行為だと思います。祈りはたまに社寺へ参詣したとき、手を合わすものと言う単純なものと思わないでください。祈りは自宅で祈ることが基本です。日常に生活・行動の中で祈ることが大切です。短時間でもよいので、心を落ち着かせ、神仏を意識し、亡くなった親近者を思い浮かべ、自分のこと、家族のこと、皆のことを心から祈ってください。そして、出来れば毎日、規則的に祈りを習慣づけてください。忙しいときに祈りが適当になるようであれば祈りを止め、少し時間の取れる時でも勿論かまいません。祈りを忘れることがあっても全然気にすることはありません。でも、毎日、規則的に祈りを習慣づけてください。

祈りは心の中で念じる無言の方法と声に出して唱えながらまたは歌いながら念じる方法があります。また、体を動かしながら念じる方法もあります。

体を動かしながら念じる方法で自宅の外で祈る場合は社寺への参拝、霊場札所への巡拝、霊山への登山参拝等があります。いずれにしても心から念じることを習慣としてください。それが祈りの習慣化となるのです。28.10.10

 

現実と祈り

人間は弱い存在です。そして、いつどのような事が誰に起こるか解らないものです。「朝に紅顔ありて夕べに白骨となる」非情な浮世なのです。

人はその現実を受け入れなければならないのです。いや、受け入れなければ人は生きてはいけないのです。

さらには、そのためには今は平穏であっても、常日頃からそのことに備えられるよう意識し行動(修行)することが仏教的生活だと思います。この世の現実を正しく受け止めて毎日をしっかり生きる心がけが大切だと思います。

要は、常ならぬ現実をそのまま受け止めて、しっかり生きていくことになりますが、そのことと祈りとはどう関連するものなのでしょうか。28.10.5

 

祈りとは‥

人は祈ります。自らの幸せを、家族の幸せを、いろいろなことを。穏やかな時も、不穏な時も、平和な時も、争いの時も。人は仏や神に祈ります。

いずれの場合にあっても、祈りは自らの内にあるもの、自らの心の中に求められるべきものと思わなければなりません。

ここで、大切なことは祈りは決してそれだけにとどまらず、他へ波及するものであるということ。自分が明るくなれば周りも明るくなるように、自分が幸せになれば周りも幸せになるように、自分の周りが争いがなくなれば、みんなが平和になるように、祈りは他へ波及する。ここを見落とさないように。祈りとはそのようなものであると思うのです。28.9.28

 

自己中の心が争いを生む
わたしは幸せを願っています。平和であることを願っています。神仏にそのことを祈ります。人はだれ一人として不幸を願っていることはありません、戦争の只中にわが身が置かれることを願っている人はだれもいないでしょう。しかし、その人が一人でなく、十人、百人、千人、万人、億人と存在している今の世界はどうでしょう。世界の一人一人は平和を幸せを願っているにもかかわらず、一人一人の人間は、自らの我のために争い、自らの平和と幸せを守る口実のために戦いを繰り返しています。戦争だけでなく個々の争いも同じことが言えます。殺人や傷害、重大な過失は自らの欲や自己中心的感情が引き起こすものです。つまり、個々の心が引き起こすと言えますね。つまり、さまざまな日常の小さな争いも大きな戦争も心が引き起こしていると28.9.22

 

災害と信仰について

地震・台風・津波・ゲリラ豪雨等…日本は世界でも災害が多い国として上位にランクされています。ほぼ毎年、日本のどこかが被害に遭い、尊い命や大切な財産が奪われます。

自然災害は人災ではありませんが、もし、温暖化の原因が産業廃棄物であるとしたら、自然災害も人災でないと言い切れなくなります。そして、いつなんどき自分が被害を被る立場になることも否定できません。 人間は生きていく過程でいろいろな災難にあいます。いかに災難をさけて生きていく本能と知恵を持っている人間とは言え、どうしても災難にあってしまうのも事実です。

人は「なにも、悪いことをしていないのに、どうしてこんな目に遭うのだろう。」「まさか自分がこんな目に遭うとは思いもしなかった。」と嘆きます。「神社やお寺へ毎日のようにお参りしているのに…。もう、お参りはやめました。」という方もいると思います。 しかし、考えて見てください。このように思われる方々は、それでよいのでしょうか。 さ〜て、どう考えれば‥‥よいのでしょうか?!

宗教は心を対象とし個人に語り掛けるものです。心は、精神あるいは気持ちとも言えます。 しかし、現実に我々の周りで絶え間なく起こる事象は心の外にあるものなのです。自分の肉体にしても自分の心の外にあります。善悪、信仰などは心のはたらきなのか、災害や事故そして病気などは心の問題なのか、すぐ解りますね。はっきり言うと、心の問題であれば、自分自身のことなので、なんとかできそうですが、心と関係のない自然災害などは、どんなにあがいてもどうしようもないことです。そして、我々はその事実をそのまま受け入れるしかないのです。大切なことは、その先どうすればよいかなのです。

宗教は、その先どうすればよいかと言う問いに答えてくれそうです。特に災害や事故病気など心の外のことと信仰などの心の内の関わりとその問題について‥‥。28.9.13 

 

 

生きる希望と勇気を与えてくれる人々

大地震から2週間近くたちました。お亡くなりなられた方、いまだ行方の分からない方の事を思うと涙が流れます。

地震発生の時、自ら避難することなく多くの命を救わんがために、命をかけて最後まで人々を守りぬき、尊い命を失われた方々の話を聞きます。また原発の事故については現在に至るまで自ら犠牲を厭わず献身的に作業されている方々がおられます。そして、被災された方のために地域の復興のために献身的に任務やボランティアにあたられる沢山の方々がいらっしゃいます。本当に頭が下がります。あなたがたはすべて一人一人がこの日本にとってかけがえのない救世主です。

ニューヨーク・タイムズ紙は「我と欲を捨てる精神と冷静さ、規律を尊重するという日本人の行動規範を福島の原発で危険な作業を続ける作業員が体現している」そして苦難に耐える日本人を「立派で高貴だ」と論評(ニコラス・クリストフ)しています。世界は敬意の目であなたがたを見ています。それは、いつしか日本人が忘れてしまったかと思われた「日本の精神」を苦難の中で体現されたからです。

長引く苦難の中で、人々に生きる希望と勇気を与えてくれるあなたがたを決して忘れることはないでしょう。そして、わたしたち誰でもこの「日本の精神」を持っています。日本人は決して挫けない! 希望と勇気をもって生きていこう!!-11.3.23-

 

 

東北地方沖大地震に被災された皆様に心からお見舞い申し上げます

ひさしぶりのブログを書く間に東北地方を中心とする大地震が発生し、自然の威力の前になすすべもなかった被災者のことを考えると…、本当になんと言っていいのか言葉が見当たりません。

愛するご家族を失われた沢山の方々、消息のわからない家族の安否を気遣う沢山の方々、救援を待ち望んでおられる沢山お方々がいらっしゃいます。一方、福島第一原発の事故による広範囲な放射能の被害も大変心配です。

しかし、悲しい出来事の中で、一筋の明かりもありました。奇跡的に救出された方々や被災地で生まれた赤ちゃんの新しい命の事などが放映されていました。そして、自ら被災されているにも関わらず救助や医療や復興などに懸命に携わっておられる方々や被災者の方々が手を取り合い励まし合い難局を切り抜けようと頑張っている姿を目にします。また世界の人々も日本へ支援や声援をおくってくれています。これらのことは、被災地の方々は当然ですが、日本人に生きる希望と力を与えてくれます。

これから、どんどん支援の輪が広がっていきます。復興には時間はかかるでしょうが被災された皆様方、どうか力を落とすことなくポジティブに生きていって欲しいと心からお祈りいたします。それから、支援と復興に携われる多くの皆様方のご尽力に心から感謝いたします。また、被災しなかった私たち一人一人も義援金やボランティアなど何らかの支援の手をさしのべていきましょう。【パソコンの調子が悪くなりブログ更新が滞りました。機械オンチはダメですね。】-11.3.15-

 

 

困難な道(旅立ち2)

当時のインド人にとって輪廻(生れ変り)の苦から逃れる一般的な方法は現世で善行を積むことなのですが、現実は厳しいカースト制が存在しており、生きていくだけで精一杯の下層階級の多くの人々にとっては、なかなか難しいことでもあったのです。

また当時のインド人の宗教観は宇宙神(宇宙の不変の原理)に強い畏敬の念をもっていたという特徴があったのですが、その観念の底流には「この宇宙は、それを動かしている不変の原理があって、その万物にも個々に不変の原理を持っている。そして、宇宙と万物はこの不変の原理で結ばれている。我が身も不変の原理(根源的な原理)で動かされている宇宙の一部である。」という考え方がありました。

多くの人々は難しい善行を積みながら、そのような神々を信仰することで救いを求めたのです。

さらに、そのような思想の下地から、非常に困難で難しいことではあるが、輪廻から逃れられるもう一つの方法が考えられるようになりました。つまり「日常の生活を捨て、自らを厳しく律し、苦行や瞑想(ヨガ)などの修行を積み重ねる修行者となり、日常に執着する自我意識を完全に捨てることにより、真に人間の能力を超えた力を得て、宇宙と自己の一体化の境地を得た者こそ、輪廻の世界から解放(解脱)できる。」とね。

王子(若き釈迦)もこれだけの理由ではないものの、かつて見た修行者と同じ出家の道を選んだのです。人の苦しみを消し去るために。-11.1.14-

 

 

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人々の願い(旅立ち1)

今や王子(若き釈迦)にとって、王や妃などの言葉がいかに必死であろうとも、自分の決意を変える力は持たなかったのです。王子の意思はそれほで堅く真剣だったのです。

「人は生きている限り苦しみが付きまとう。王になろうとも、奴隷になろうとも、苦しみの生の中にいる限り苦から一生解放されることはない。であるならば、わたしの求める道は、いつか見た修行僧(出家)と同じく、その道を覆い隠している、わたしを取り巻いているすべてのものを捨て去り、この道をもとめるしかない」と。王子をそのように決心させた要因は王子の内的なものだけと言うのではなく、王子に限らず当時のインドの人たちが、生そのものが苦であるという意識を持っていたと言う外的な要因も大いに関係していたと思われます。なぜならば当時のインドの思想として、命あるものは死んではつぎつぎと生まれ変わり、それが永遠に繰り返されると信じられ、しかも前世の行いの結果により、同じような生の苦を受けるどころか最悪の場合人間以外の生き物に生れ変る…、つまり、生まれ変わり(輪廻)そのものが苦であり、現在はそのような苦の輪廻の途中として捉えられていたのですから。

現在の苦とそれに連なる輪廻の苦から逃れることが当時のインドの人々の願いであったと言っても過言ではなかったのです。-11.1.8-

 

 

真理の王(求める道5)

「わたしは苦のない道を求めたい。善政を施し民から求められる偉大な王であったとしても、人の老い・病・死などの苦しみを取り除くことができるとは思えません。それどころか富と権力の象徴たる王は自らの富と権力のために苦しまなければならないのです。自分の外にあるものを極めることが出来ても苦はなくならない。富とか権力の外にあるものを捨て去り(出家し)、自らの内にある本当に道を求め得た者こそ真理の王になれるのです。わたしはそのような王を目指していきたいのです。」

王子のこの言葉に王は返す言葉が見つからなかった。いかなる説得も王子の堅い決心を変えることができない。王子は必ず城を出ていくのだと思うと王の目から涙が溢れ出て、思わずその場を立ち去ったのでした。王子の妃も夫が今にも城を出ていくのではないかと思い、必死に涙ながらに懇願するのです。

「出家した王もいると聞いています。どうしても城を出て行かれるならば、わたしは止めません。ただし、わたしも連れて行って下さい。わたしもあなたと同じようにその道を求めたいのです。どうかわたしを捨てないでください。」-10.12.31-

 

 

統治する者(求める道4)

「国を統治する者は争いごとを避けなければなりません。しかしながら王の言うようにいつの世であっても王の座を狙う者がいるものです。なぜでしょうか。思いますのに、一人の統治は永遠に続くものではなく、いずれ新しい統治者が現れるものです。一人でも善政が続くことは好ましいことではありますが、いつまでもそれが続くことは人の命が限りあるものと同じく不可能なことなのです。そうなれば、統治は統治をしたいと意志する者に統治を任せるべきです。その者が複数いるときは争いになり、力のある者が勝るのです。そこには善悪よりも先に力が優先する法則があるためでしょう。評価される正しい統治とは、その後に統治を受ける側が判断していくことになるでしょう。弱き善政者は弱き故に善政が遂行できないものです。強き統治者は力があるが故に善政も可能なのです。その意味で、いつの世にあっても民がいる限り統治する者は絶えることがないのです。」-10.12.26-

 

 

本当の豊かさ(求める道3)

「わたしも、生きているからこそ人の楽しみや豊かさを求めるべきだと思っております。しかし、それは目に見える楽しみや豊かさでしょうか。自分の感覚とその感覚に映る外の世界に本当の楽しみや豊かさがあるのでしょうか。必ず裕福な境遇の者は本当に豊かなのでしょうか。貧しい者が必ず不幸せなのでしょうか。本当の楽しみや豊かさとは感覚とか外の世界に求めるべきでなく自分の中(こころ)にこそ求めるものではないのでしょうか。それを求めることができた者は本当の苦しみのない生き方ができると思います。

わたしは、この国に生まれ、父の温かい庇護によりなに不自由なく過ごさせていただいたことに感謝しております。しかし王城での生活はわたしに心から喜びや幸せを感じさせることはできませんでした。それどころか、人生の現実と空しさを思うにつけ、ここでの生活は私の求める道ではないと確信したのです。」-10.12.23-

 

 

戯言(求める道2)

家臣と王子のやり取りを聞いていた王は、今や王子が出家するのではないかとの恐れと悲しみに襲われました。

「いつの世にあっても統治する者がいるだと!年老いた王しかいない国に現れるのは、いつか権力を奪おうと狙っている輩なのだ。征服された者の血の上に胡坐をかいて権力と富を牛耳る輩しか現れないことを王子も知らぬはずはないであろう。それに苦しみのない生を求めるだと!老いや病、死の苦しみから人間は決して逃れることはできない。それだからこそ、人は生きている間に生の楽しみを求め豊かさを求めるのではないか。楽しみを絶ち豊かさを絶つような生き方をして、なにが苦しみのない生き方と言うのか。王には王子の言うことが戯言にしか聞こえないぞ。」-10.12.12-

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人の道(求める道1)

王子(若き釈尊)は城を出(出家)る決意を固めるのです。日頃の王子の様子や言動から、王や妃など周囲の者は当然心配し、王子の決意を必死に思いとどめようとしたに違いありません。

「年老いた王の代りに王となり、民や国を治めなくてはならない立場の者が、城(家)を捨て家族を捨て国を捨て、それであなたは何を求められるのですか。王や家族を悲しみに追いやり、国の民を混乱と不幸にすることが、あなたの求めることなのですか。そんな出家よりも、あなたは家族を守り国を守り治めていく重要な任務を果たしてこそ、家族や民の幸福が実現するのではありませんか。隠遁者ならまだしも、年若い者が出家などと言わないでください。自分の務めを全うすることが人の道ではありませんか。」

「わたしがいなくてもその様なことは、なにも心配をすることはない。この国は王もいるし、後継ぎ(王子の子)もいる。そしていかなる世にあろうとも民を統治する者は絶えることはない。しかし、いかなる世であろうとも、人々の老いや病や死の苦しみは、なくなることはない。統治者が誰であろうとも、貧しい国であろうが豊かな国であろうとも、それは変わりない。そうした苦しみの生(人生)にあって、今まで誰も求めても得られたことのなかった道、苦しみのない生(生き方)、それがわたしの求める道(出家)なのだ。」-10.12.6-

 

 

修行僧(若き釈尊6)

快楽的な生活と反比例するがごとく、後に来る空しさ。人の美貌や地位や権力もいつかは老いぼれ変容する。かつての逞しい肉体も死に行く病には勝つこともできず、死と共に朽ち果てて消え去る。つまり誰一人として避けることのできない移ろい(無常)のこの世であるにもかかわらず、かつての自分を守るがために或いは取り戻したいがために苦しみが生じるのではないでしょうか。そのような苦しみから卓越した人とはどのような人なのでしょうか。王子(若き釈尊)はまさに苦しんでいたのです。そしてどうしたらこの苦しみを卓越し消し去ることが出来るかについて深く考えていたのです。そのためには王城での生活を続けているのでは恐らく解決できないであろうことを悟っていたのでしょう。

ある日、王子は城外で今まで以上に衝撃的な光景を目にします。多くの人々の中でひと際目を引くものでした。それは、今までのような嫌な光景ではなく、すがすがしく崇高にさえ思える光景だったのです。王子の目に映ったのは一人の托鉢僧でした。かれは質素な僧衣をまとい鉢を手に持ち、静かにたたずんでおりましたが、人々のふるまいに対しても動ずることのないその平静なそぶりは気高くさえ映ったのです。

王子は、その僧が世俗の愛欲を絶ち心の安住を求め輪廻の世界からの解放を求めている修行僧だと聞かされます。その時王子は自分が求めているのはまさにこれではないか、そう、苦しみから卓越する道がそこにあると確信するのです。-10.11.30-

 

 

人生とは…(若き釈尊5)

人は誰しも、老いの苦しみが人生の終幕に控え、その終焉には死に至る病が我が身を襲い、絶対に逃れることができない死の幕に閉ざされてしまいます。どんなに美しい肉体を持った元気な若者であっても、年往けば皺深く体は萎え衰え、人の厄介にならない限り糞尿にまみれて死に行かねばならないのです。誰も己が死を止めることはできず、死の瞬間を享受しなければならないのです。

王子(若き釈尊)は、それらのことを当然意識したと思います。人生はその意味で無常で儚いものだ。今のこの栄華も権勢も快楽も所詮無常のなにものでもないことを考えたはずです。形あるものもすべては同じで、肉体がいつかは朽ちるように雄々しい王城もいつかは崩れ落ちる時がきっと来る。人はそんな無常の一生を送るために生まれ生き苦しみ死んでいかなければならない。そのようなことのために生きなければならない人生とはどんな意味があるのだろうか…と。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」のような人は稀です。この言葉は皆が知っているのですが、地位が上がるとその言葉は打ち捨てられ「実るほど頭を立つる天狗鼻」になるのが普通なのではないでしょうか。人は権力を得ると贅沢の限りを尽くし自分より下位の者に高慢で威圧的な態度で接しがちですから。

しかし王子は稀な人でした。決してその身分に安穏とはしていなかったのです。武術や学問にいそしむことはすれ、遊芸享楽三昧で過ごすことはなかったのです。王城は広いとは言え王者として負わなければならない権力に捕らわれた身の不自由さと権勢の脆さを感じつつ窮屈でいたたまれぬ王城での生活を過ごしていたことと思います。そして久々に気晴らしのために出た城外での光景は、王子が今まであまり目にすることもなかった老いさらばえた老人や苦しむ病者や死者の姿…。王子はその時どう考えたか分かるはずもないけれどもつぎのことは言えるでしょう。この経験が王子に今後の生き方を変える程の決定的な思考を与えたということが。-10.11.12-

 

 

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死の苦しみ(若き釈尊4)

死は怖いし、恐ろしいですね。身近に死に伴う苦痛や死者の容姿の変化を知る者は尚更と思います。人間の最大の苦が死であることは、おそらく誰も認めざるを得ないでしょう。愛する者・尊敬する者の死は本当に悲しいし、それが理不尽に命を絶たれなければならなかったとしたら悲しみは怒りに包まれることでしょう。いくら高僧であろうとも「死にとうない、死にとうない」と言うは死に行く人間の偽らざる気持ちに違いないでしょうから。

王子(若き釈尊)は城外で死に対しての、まさにそのような情景を目の当たりにしたから、老いの苦しみに病の苦しみ更には死の苦しみを深く考えられた…。なに不自由のない王城での生活であったにも拘わらず、弱肉強食の社会で生きる過程の必然的な苦しみを…考えられたのです。王子は既に妻もめとり、普通なら幸福なる家族との生活を築き守り求めていかなくてはならない時期でもあるのに…。

わたしが思うのに、黒い汚点は周りが白ければ白いほど目立つように、衣食住に十分恵まれた境遇の人間と、日々食を求め生きていくのが精いっぱいの人間が、同じような苦しみを受けなければならないとしたら、苦しみを知らない人間の方がより多く苦しみの影響力を受けるのではないでしょうか。ただ、どちらにしても人間は苦を遠ざけ避けようとするもの。どうにかして楽の方へ行こう行こうとするもの。

ところが、王子は違っていたのです。強烈な影響力を受けたにも拘らず、苦(老い・病い・死)に面と向かって行った。つまり苦を享受したのです。死をも含めた苦を消し去るために。-10.11.2-

 

 

病の苦しみ(若き釈尊3)

人はだれでも病(やまい)に罹りますが現代医療はその多くの病を完治させることができます。しかし人はいずれ死に至る病を患うのです。特に高齢になればなるほどその確率は高くなります。若い人でも重い病にはその危険性があります。このことは事故による大ケガの場合も同じです。平均寿命が語るように人の致死率は100パーセントなのです。

わたしたちはそのような宿命を背負い生きているのです。でも、若く健康な人は普段それを意識して生活はしていませんよね。

昔はどうだったのでしょうか。想像してみてください。今では簡単に治る病でも命を落とすことが多かった。同じような病状が同じ地域に何人か出れば流行り病ではないかと人々を恐れさせた。医者や祈祷もできない貧しい人たちは自ら工夫をするしかなく自然治癒に任せる以外になかった。とにかく病に罹ることは本当に大きな苦しみでしかなかったのです。

王子(若きお釈迦さま)は人の老いの苦しみについての思いも覚めやらぬうちに、またしても城外で衝撃的な光景を目にしたのです。そこには、もう起き上がることもできない病人の横たわる姿が…。介抱のしようもなく人々から見放された痛々しい老人の姿が目に映ったのです。

人はどんなに美しく元気な若者であっても年往けば、必ずあのような老人になり、そしていつかは死の床に着かなければならなくなる。その苦しみが必ずやって来ることが解っているのに、人々は争いを続け目先の快楽を追い求める。苦しみの中にいずれ投げ出されるのに、自分だけは関係がないかのように老人を疎み病に目を背けようとする。はたして、本当にそれでいいのだろうか。

息も絶え絶えな病人の姿を見て、王子もおそらく同じような思いにとらわれたと思われませんか。-10.10.25-

 

 

老いの苦しみ(若き釈尊2)

シュドーダナ王(お釈迦さまの父)は心配でした。王子(若きお釈迦さま)の思いつめた様子を見るにつけ…。王子は王位を継がず出家するのではないか。予言した呪者の言葉どおりになるのではないか。心配だからこそ、王は喧騒と汚臭にあふれた貧民街の言わば社会の影の部分を王子の目から遠ざけ、なに不自由のない申し分のない環境の中で育てることを続けたのです。

しかし、その醜さを知らない環境が農耕祭での出来事をよけい強烈な経験として王子の感受性の強い精神に作用したことは疑いもないことでしょう。

いつも物思いに沈みなにやら考え事をしている王子の姿を見て、王は王子に城外の空気を吸ってみるのもいいのではと提案しました。ひさしぶりの外の雰囲気が王子にとってはなにか別の世界に足を踏み入れたように感じたことでしょう。うっとうしい城の中と違い新鮮なものを好奇の目で探すような興奮を伴っていたかも知れません。しかし、しばらくして目に入ったのは、多くの人々の雑踏の中でよろめくように杖をつきとぼとぼと歩く老人の姿だったのです。今のように福祉の考えと社会制度が発達した時代ではありません。老人はどうしても世話のかかる社会の厄介者と見られていた。日本でも楢山節考」で有名な姨捨(おばすて)が存在したように。

王子は眉をくもらせました。そのような老人の姿を目前で見た王子の思いは社会の厄介者とか憐れな人というものではなく、おそらく人間がいつか必然的に負わなければならない老いの苦しみを我が身のごとく感じたものだったのではないでしょうか。-10.10.20-

 

 

弱肉強食(若き釈尊1)

一羽のハヤブサが空高く旋回し、地上付近にはヒヨドリの一群が舞っている。どこにもありそうな、のどかな田舎の風景。ところが…あのハヤブサが突然目にも止まらぬスピードで一直線に降下しヒヨドリの群れに突っ込んだと思った瞬間、あわれ犠牲となった一羽のヒヨドリは空中にわが羽を散らし、ハヤブサの鋭い爪に捕えられていたのです。なんと言うことか、この一瞬の出来事をだれが予想し得たでしょうか。TVに映し出されたこの映像は自然界の厳しさを淡々と伝えているだけだったのです。見る人によっては、この弱肉強食は自然の摂理であり、いたしかたないと思われるでしょう。しかし人によってはそうではなく、別の思いをされる方もいることでしょう。

命あるものが命あるものを奪って命ながらえる現実、強きものが弱きものの命をいとも簡単に奪う現実。人間の世界に置き換えて見た場合、権力や富のために結果的に弱いものの命を奪ってしまう、そのような人間の醜さをそこから連想することもありうることと思いませんか。

北インドの小国に王子として生を受けた年若いお釈迦さまも、例外ではなかったのです。かれは農耕祭の儀式の中でその衝撃的な出来事を経験し、深い思索に捕らわれたのです。母の命と引き換えにいま自分が生きながらえている、そんな思いを抱いている王子にとって、生と命について人一倍の感受性と深い思考を持つようになったことは容易なことだと思われます。そう、母マーヤ王妃は待望の一子・王子(お釈迦さま)を生んだ直後に亡くなったのですから。だからこそ、この世の命の営みの条理・不条理と世の無常を常に思い続けていた若きお釈迦さまにとって、その出来事はさらに深い深いに思索に進まれる確かな契機となったことは間違いないことでしょう。-10.10.11-

 

 

おわりに(法話より9)

これで「一隅を照らす運動」テーマにそったつもりですが、私たち凡夫は、いままでお話した事柄を率先して実行することはなかなか難しいことだと思います。

しかし、安心してください。お釈迦さまはそうは言っておられないのです。維摩経(ゆいまぎょう)という経典にそのことが書かれています。

蓮華は汚泥の中に美しい華を咲かせます。きれいな水では育つこともできないのです。煩悩にまみれた凡夫こそ、仏のこころに目覚めることかできる。凡夫だからとか煩悩だからと諦めることはないのです。すべての人は仏の種子をもっている。それを開花させるには、煩悩は必要なものであると、まぁ、このような意味のことが説かれているのですよ。

わたしたちは、煩悩と言うべき苦しみを味わってこそ、本当の幸せを味わうことができる。それは病気に苦しんだ人が本当の健康のありがたさを知ることができるのと同じです。そして、そのような経験をしたからこそ、人の痛みがわかることができ、人を思いやることができるのではないでしょうか。

やさしい笑顔で人に接してあげるだけで、一隅を照らすことができるのです。

人生四苦八苦の苦しみがあると言われるように、生きていくこと自体が、苦しみなのかもしれません。 生きることについて、わたしたちは、どう考えたらいいのか(法話より2)で問いかけました。でも、ここまで目をとおしてくださった皆さんはつぎの言葉にきっと、うなづいていただけると思います。

「わたしたちは生かされているのです。わたしたちの命は自分だけのものではないのです。そして、人は他人のために生きているのです。」-10.10.3-

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地球の秘密(法話より8)

共に生きる。共生とは、わたしたちがわたしたちの関わるすべてのものと共に生きると言うこと。関わるすべてのものとは、人間はもちろん、すべての生き物、山や川などの自然、それらを育んでいる地球。つまり、わたしたちを取り巻くすべてと、共生できてこそ、わたしたちは生かされている。

豊かな四季に恵まれた日本、その日本を支えている地球。それは宇宙に一つしかない、この大切な地球。しかし、現代社会のわたしたちが生きると言うことは、ある意味で、自然をこの地球を、一人一人が、すこしずつ汚し狂わせていっている。つまり、わたしもあなたも気づかないけどすこしずつ環境破壊の加担をしているとは思いませんか。

先般も、ゲリラ豪雨で尊い命が失われました。最近、過去に例を見ない、異常気象がつづきます。これも環境破壊による地球温暖化が大きな原因だろうと言われています。国の利害を優先し、自分一人くらいどうってことはない、という自己中心的な考え方に地球は悲しみ憤っていると思われてなりません。

わたしは、ある女の子のことを考えずにはいられません。その子は 坪田愛華さん。

彼女は一冊の絵本「地球の秘密」を残して、この絵本を書きあげた直後、わずか12歳で、この世を去っています。宿題の課題により生まれたこの絵本は、環境破壊について、またそれを防ぐ方策について、弱者を思いやる広い視野で書かれているのです。宿題の域を超えたこの絵本は、他者と共に生きる必要性をわたしたちに訴えかけています。決してたんに子どもの書いた絵本ではないことを、その内容は大人のわたしたちに今も深い警鐘を鳴らしつづけているのです。-10.9.29-

 

 

無財の七施(法話より7)

自分のしたことが、人を助け人に喜ばれることは、自分自身もうれしくなるものですね。それでお金をもらうと仕事になりますが、ただでやってあげると奉仕になります。反対に自分のお金や物を対価として差し出すことを支払と言いますが、対価でなく見返りもなく差し出すとこれも布施と言います。これも奉仕に違いありません。

布施については、『雑宝蔵経』(ぞうほうぞうきょう)に「無財の七施」(むざいのしちせ)という言葉があります。 お金がなくても、物がなくても、周りの人々に、少しでも喜ばれる方法がある、それがこの「布施」の教えです。相手のために、にこやかに、やさしい態度や言葉や行動でこころから接してあげれば、どんな人でも穏やかになり、うれしくもなるものです。

先日、テレビで腰塚勇人さんという一人の教師が生徒に伝えたい「命の授業」のドキュメントを見ました。そのなかで、腰塚さんはつぎのようなメッセージを生徒に伝えました。

 「口は人を励ます言葉や感謝の言葉を言うために使おう・・・」

「耳は人との言葉を最後まで聞いてあげるために使おう・・・」

「目は人の良い所を見るために使おう・・・」

「手足は人を助けるために使おう・・・」

「心は人の痛みがわかるために使おう・・・」

これこそ、「無財の七施」そのものであり、真の奉仕と思われませんか。-10.9.18-

 

 

生きるとは(法話より6)

わたしたちは、いのちを受け継いで生きていることは、わかったのですが、その、いのちをどう生かせばいいのでしょうか。 人は、どう生きていけば、よいのでしょうか。

 中部経典に「一夜賢者の偈(げ)」という教えがあります。 一夜は一晩と同じではなく、一日のこと。賢者は賢い者、偈は詩という意味です。賢者の日々の教えということでしょうか。

 「過ぎ去れるを追うことなかれ。いまだ来たらざるを念(おも)うことなかれ。過去、そはすでに捨てられたり。未来、そはいまだ到らざるなり。されば、ただ現在するところのものを、そのところにおいてよく観察すべし」。「揺らぐことなく、動ずることなく、そを見きわめ、そを実践すべし」 「ただ今日まさに作(な)すべきことを熱心に作せ」。「たれか明日死のあるを知らんや」。「まことにかの死の大軍と、遇(あ)わずというはあることなし」 「昼夜怠ることなく実践せん」 「かくのごときを一夜賢者といい、また、心しずまれる者とはいうなり」。

 

いやな思い出はすでに消え去ったもの、反省すべきことがあったなら、それに気づくだけで十分だと思って、くよくよしないこと。

これから先のことを思い悩むのは取り越し苦労、どうにかなるようになるもの。結果がどうであれ、自分なりに生きていけば、なにも言うことはない。悩むのは時間の無駄と割り切りましょう。何事も前向きに前向きに。

 

そのような気持ちを常に思い起こして行けば、何かいやな困ったことに出会ってもストレスを抑えることができ、平常心でいられるでしょう。そして、自分がやらなければならないことは、ただ一つ 「ただ今日まさに作(な)すべきことを熱心に作(な)せ」なのです。一日が一生の如く、ただ今を大切に。そのような一日を積み重ねていけばいい。毎日の積み重ねが生きることなんです、自分の一生なんです。-10.9.11-

 

 

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一人の母(法話より5)

話がそれますが、ミトコンドリア・イブという言葉を聞いたことはありませんか。

現代科学は日進月歩で、どんどん進歩しています。わたしたちの細胞の中には誰しもミトコンドリアをもっているのですが、そのDNAの塩基配列を分析してあることが解ったのです。

DNAは細胞にある遺伝子だということは知っておられると思います。ミトコンドリアDNAは人間の精子と卵子が受精する時、男性のミトコンドリアDNAは切り落とされるのだそうです。つまり、女性にだけ、この遺伝子が正確に伝えられていくそうです。 もちろん、人間を作りあげている60兆個の細胞の遺伝子は染色体によって、男性女性半々で遺伝されます。でも、ミトコンドリアDNAは女性にだけ受継がれていくのです。このDNAを分子時計で計算すると、今の人類は約16万年前後までさかのぼることができ、たった一人の母につきあたるのだそうです。その、一人の母はアフリカにいて、その後人類はその一部がユーラシアへ移動し、そこからヨーロッパやジアへ分かれて(移動して)行ったと言われています。

ここで、誤解のないように言っておきますが、一人の母とは実際にその当時その女性だけしか、いなかったということではなく、当時も沢山の女性はいたのです。ただ、現在のわれわれに遺伝子をつたえてくれた(母)女性はたった一人しかいなかった訳で、つまりあとの女性はわれわれに遺伝子を残すことなく、途中で絶えてしまったということになるそうです。また男性しかもっていないY染色体DNAについても、人類のすべての男性は、たった一人の父にたどり着くそうです。

たいへん、横道にそれましたが、わたしが言いたかったのは、人間はみな兄弟ということなんです。科学的に黒人も白人も黄色人も、遺伝上みな兄弟ということなのです。その、人類も、類人猿から分化してきているのです。すべて、地球上の生き物は、繋がりがあって、わたしたちが存在していることを、忘れてはならないと思います。-10.9.4-

 

 

山鳥の声(法話より4)

旅をする山道でわたしに添うかのように二羽の山鳥が飛んで来てはホロホロと鳴いている。まるで、気をつけて旅をしなさいよと言っているかのように…。もしかすると、あの山鳥は逞しさを与えてくれた父ではなかったのか。やさしさを注いでくれた母ではなかったのか。汗にまみれたこのわたしを気遣うようにホロホロと鳴いては飛んでいく山鳥よ。「山鳥のほろほろなく声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」(行基菩薩)

そう、あなたがそのように感じることができたなら、きっと山鳥はあなたの父や母に違いがありません。行基菩薩もまさにそう感じていたのです。

いのちに関して言えば、人であるから鳥とは違うとは言えないのです。たまたまわたしたちは人間として生まれてきたが、ひょっとして鳥として生まれたかもしれない。人間として生まれることは希有なことで本当にありがたいことかもしれないのです。「人の生を受くるは難(かた)く、やがて死すべきものの、いま命あるは有り難し」(法句経)

これらの文句などから、わたしは、生きとし生けるものは、動物も植物もいのちで繋がっていると考えます。それを「輪廻転生」と言いかえることもできるでしょう。そこには虫や畜生と忌み嫌うのではなく、おなじ繋がりのあるいのちとして尊重しなければならないと言っているようです。ただ、人間に害のあるものは駆除していかなければならないでしょう。しかし、それも必要最小限度にとどめるべきものと思います。なぜなら、この地球上のすべての存在は、何らかの必要性があって存在していると考えるから。そして、それらの行く末はそれらを育んだ地球にお任せすべきで、人間がどうこうするのは、すべて地球の意に反することだと思うのですが、みなさんはどう考えますか。-10.8.31-

 

 

いのち(法話より3)

世の中で一番大切なものはなに? と問われればまず自分、自分の命がなによりも大切と答えますよね。当り前のことですけどね。誰だって、生きたい。世の中のあらゆる生き物にとって生きたいのに例外はありません。

考えてみれば、わたしの命があるからこそ、世の中、宇宙は存在するのではありませんか。もし、わたしの命が尽きるとすれば、この世も宇宙もわたしにとって関係がなくなってしまうのですから。そのことは、この世・宇宙があるからこそわたしが存在し、わたしが生きているからこそ、この世・宇宙が存在するのではありませんか。その意味でわたしの存在は宇宙からあたえられた本質的な命であり、わたしにとって一番大切なもの(いちばん尊いもの)と言えるのではないでしょうか。

そして、もうひとつ大切なことは、個々の命もそれぞれ宇宙から与えられた、かけがえのない命だということです。しかし、わたしたちが生きていくためには、お米やお魚などのそれぞれの命を頂戴して生きていかなければならないようになっている。空気や水だけで生きてはいかれないからね。これも、宇宙から与えられた宿命なのですねえ。それだけではありませんよ。わたしたちは、遠い祖先から受け継がれた命によって、生かされているし、いろいろな人たちのおかげや恩恵を受けて、生かされている。さらに、この地球という自然のふところのもとでわたしたちは生かされている。

このような命だからこそ、自分を大切にし、生きていってほしい。そして、自分だけでなく人を大切に思い、人を思いやる心を持ちこの世を生きていってほしい。さらにわたしたちが生きていくために頂戴しなければならない命に感謝する心、わたしたちが生かされているこの自然に対する畏敬の念を常に忘れないで生きていってほしいと思います。-10.8.28-

 

 

生きる苦しみ(法話より2)

それでは初めに、一つ目の「いのち」ということで、いのちの尊さについてお話したいと思います。

 ごく、最近のことなのですが、同年輩でよく存じ上げている方の葬儀に参列させていただきました。 弔辞を読まれた方は、涙ながらに「あなたの選ばれた道だから、なにも言えません。いまはただ安らかにお休みになってください」と結ばれました。 自ら命を絶たれたのです。 亡くなられた方は、健康で明るい方で、町内でも人気のある、本当に世話好きな方でした。 何で… どうして…  残された、ご家族の悲痛な心持を思うと、悲しくてなりません。 これと似たような悲しいことは私のこの話だけではないと思います。 みなさま方でも同じような経験をお持ちの方がいらっしゃると思います。

 四苦八苦(生老病死など)の苦しみがあると言われるように、生きていくこと自体が、苦しみなのかもしれません。 生きることについて、わたしたちは、どう考えたらいいのでしょう。 わたしたちは生きています。 わたしたちの命は自分のものです。 そして、自分自身のために生きています。 普通、わたしたちは、そのように考えます。 でも、はたして、それでよいのでしょうか。

 わたしたちは地域や社会の関わりの中で生きています。 生きていくためには競争社会の複雑な交わりの中で、働きながら生きていかなければならない。 人間として生まれた以上は避けられない。 そして生きていく中で、社会や自分自身の問題によりストレスをため込んで病んで行く。 なんて、人は弱い存在なんでしょう。-10.8.19-

 

 

一隅を照らす運動(法話より1)

今回から数回にわたり、大田市圓城寺での法要の際、法話した内容をブログしますので、のぞいて見てくださいね。 

「天台宗では、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、『一隅を照らす運動』という社会啓発運動を行っております。

『一隅を照らす運動』とは、信仰と実践によって一人ひとりが心豊かな人間になり、平和で明るい世の中を共に築いていこうということで、『一隅を照らす、これすなわち国宝なり』という、天台宗を開かれた伝教大師最澄さまの精神を現代に生かすために生まれたものです。

 また、ここで言います一隅とは、今、あなたがいる、その場所です。あなたが、あなたの置かれている場所や立場で、あなたが光れば、あなたのお隣も光ります。小さな光が集まって、町や社会や日本を、そして世界を照らしていきましょうと言うものです。

 そこで、今日のお話はこの「一隅を照らす運動」がかかげている三つのスローガン、命、奉仕、共生(ともに生きる)から、お話をできればと思っています。」-10.8.14-

【法話の内容は天台宗延暦寺公式ホームページを参照させていただいております。】

 

 

命の尊さ(釈迦誕生3)

お釈迦さまは、ルンビニー苑でお生まれになって「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と言ったと伝えられています。

この意味は、この世で我(釈迦自身)が唯(一番)尊いのだよと解釈されています。仏教では本当に唯一尊いお方に違いないのです。普通の人がそのように言えば、ずいぶん思い上がった言葉に聞こえますが、お釈迦さまだからこそ、そのお言葉は仏教徒にとって、すばらしく尊いお釈迦さまだからこそ当然なお言葉として受け取ることは自然なことです。

しかし、わたしは、それとは違う意味も隠されていると思うんです。

「天上天下(or)」というのは宇宙、大自然。「唯」は唯一、「我」は自分。この宇宙で生きている唯一の自分自身ということではないでしょうか。そして、「独」は一人々々のという意味でしょう。

宇宙からから与えられた、たった一つしかない、かけがえのない命。そして自分の命だからこそ、いちばん尊いと思うのと同様に、自分以外のそれぞれの命も、それぞれのものにとって、同じくいちばん尊いものなんだ。

このような、命だからこそ、自分だけでなく、すべての命に対しても、思いやる心で、お互いにこの世を生きていかなければならない。と、そのようなメッセージが隠されていると思っています。

わたしは、この言葉は、お釈迦さまが、決して自分だけが偉いと言っているのではなくて、命の大切さをお示しになった仏の言葉のだと思うのです。-10.8.5-

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人は独りでは生きていけない(釈迦誕生2)

「天上天下唯我独尊」

人はだれでも、自分がいとおしい。自分の人生がいとおしい。自分の命がいとおしい。自分が一番であって、最上の存在である、と思いますよね。これは他人と比較して、自分は、自分の命は、自分の人生は、一番で最上であると意識することに違いはないでしょう。そう、人はだれでも、そのように自己中心的な存在であるし、それはごく自然的なことでしょうね。

たしかに、人は生まれたとき「おぎゃーおぎゃー」と、産声をあげて、自分の存在を主張します。しかし、赤ちゃんは、親がいて、人がいて、はじめて生きていけるでしょう。同じように、人は、自分独りでは生きられないのです。両親がいて、自分がこの世に存在できていることは、だれでも疑わないけれども、両親のほかに、家族がいて、自分の周囲の人たちがいることで、自分が生かされていることには、気づかない人が多い。

かりに、山奥や孤島で独りきりで食べていくことが出来たとしても、それは生き物として可能であって、とうてい人間として生きているとは言えないのではないでしょうか。

親がいたからこそ、親の愛があったからこそは、自分が存在できたと、普段は意識することが少ない。それと同じように、人は自分以外の人たちやものごととの関わりにより、この世で生かされていることを意識することが少ない。

そこで、わたしは、つぎのように思うことにしています。蜘蛛は、糸がないと生きられないように、親の恩(愛情)は、糸の太い縦糸だとね。そして中心から周囲に広がる横糸は、周囲の人たちやものごととの関わりの糸だと思っているのです。わたしは、糸の中心にどんと居座っているけれども、この縦糸横糸がなければ生きられない存在なのであるとね。つまり、言い換えれば、わたしは自己中心的な人間であるけれども、縦糸と横糸にささえられて、生かされている存在なんだとね。

さて、そのことと「天上天下唯我独尊」との関連は??-10.7.28-

 

 

不思議な出来事(釈迦誕生1)

お釈迦さまのご誕生にまつわる、不思議な出来事がいろいろあります。腋(わき)の下から、お生まれになったとか、すぐ七歩あるき、天と地を指さし「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」とおっしゃられたとか、甘露の雨がふったとか、その他にも、いろいろと不思議な現象が現れたことなどです。どの宗教でも開祖さまには、そのような不思議な出来事がまつわるものです。

しかし、お釈迦さまも人間ですから、いくらなんでも、それは、後世の作り話であると誰も思っていますよね。

でも、仏教では、そのような不思議なことが起こるほど、ありがたく尊いお方ですよと、わたしたちの理性ではなく感性に訴えかけているのです。

極楽とか地獄があると思うのは、こころの持ちようによるのと同じように、決して、わたしたちの理性に事実としての現象だなどと、訴えかけているのではないのです。理屈は抜きにして、とにかく、ありがたく尊いことと崇めることのできる感性が信仰なのですよと言っている。

異論があるかも知れませんが、それが宗教の特質だと、わたしは思います。

みなさんは、どうお考えになりますか。-10.7.18-

 

 

命の授業

   「あたかも母たる者がその独り子を

   おのが生命(いのち)をかけて守るがごとく

   すべて生きとし生けるもののうえに

   限りなき慈しみの思いをそそげ」  【経集】

お釈迦さまのこの言葉を知っている方も多いことでしょう。仏教に貫く精神の一つはこの「慈しみ(慈悲)」の心なのです。お釈迦様は身分の高い王族に生まれながら、六年間修行をし「人はいかに生きるべきか」を悟られた実在の人間です。

先日、腰塚勇人先生の≪命の授業≫のテレビを見ました。

   「口は人を励ます言葉や感謝の言葉を言うために使おう…」

   「耳は人との言葉を最後まで聞いてあげるために使おう…」

   「目は人の良い所を見るために使おう…」

   「手足は人を助けるために使おう…」

   「心は人の痛みがわかるために使おう…」【フジテレビ・アンビリバボーより】

この言葉は、教え子の励ましに支えられ苦難をのりこえた一人の先生が生徒に伝えようと決心した≪命の授業≫の言葉ですが、それは人として命をかけて守るべき慈しみの心の大切さを説いたお釈迦さまの言葉と重なり合ってわたしたちの心に響いてきます。

お釈迦さまとはどんなお方だったのでしょうか。その残された言葉はどのようなものだったのでしょうか。そしてその「悟り」とは… 次回からいよいよお釈迦さまについて取り上げていきますよ。-10.7.11-

 

 

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思想の激震(インド思想再考2)

輪廻を絶ち天上に生まれ変われることを願い、また現世利益を願い、善行(功徳)を積む。信仰深いインド民衆にとって正しく生きることは信仰上の務めでもあり、幸福を得る具体的な手立てなのです。

それと同時に、自我を超越し「宇宙と一体化-10.3.18-」【このことを「梵我一如」といいます】になることを願い、座禅(ヨガ)や苦行を行うことで悟りを求める。これがインドの修行者にとって自ら信ずる道の実践にほかなりません。

たしかに、正しく生きることは幸福につながる道でしょう。

そして、真理に近づくために自らの肉体と精神を鍛えることは悟りにつながる道でしょう。

いずれにしても、それによって人は幸福になれるのなら、悟りが得られるのなら、そのような信仰の姿勢は間違いではないと思いますよね。

しかし、仏教が誕生したとき、インドの思想に大きな激震!が走りましたよ。

つまり、お釈迦様が悟ったものは、お釈迦様自身が言ったように「世の中の考え方に逆らう、人々には理解しがたいもの」ゆえに、お釈迦様はそのような信仰の姿勢を正しいとは見なかったのです。そのようなことでは真の幸福や悟りを得ることができないと考えたのです。なぜでしょうかね?-10.7.3-

 

 

魂について(インド思想再考1)

人はどんなに「いやだ〜!」と思っても死ぬときは死ななければならないのです。それはわたしであろうが、あなたであろうが避けることができない。

自分自身が死を予感する時、人はどうしても死ぬことに無関心ではいられないでしょう。人は死に直面した時、先に旅立った親族やあの世のことを思うのは人間として当然で素朴な感情ではないでしょうか。

だから死にゆく人は死について、それは肉体が消え去ることであって、魂(霊魂)は消え去ることのない別の存在なのだと信じて死を迎えたいと思う。その感情が素朴な信仰(霊魂信仰・祖霊崇拝など)につながり、いわば人間として自然な宗教観を形づくっていったのでしょう。

そうするとですよ、… このように考えていくと、すべての生き物の魂も同じよう考えないと理屈があいませんね。

と言うことは、すべての生き物の魂も死によって消え去ってしまうものでもなく、また誕生によって新たに生ずるものでもないと考えないと魂は存在し続けるという根拠を失ってしまう。

インドの民衆信仰では、人間を含むすべての生き物の魂は、前の生と次の生との間に存在していて、またそのような(状態の)魂はいずれかの生き物に生まれ変わっていくものと信じられているのです。ただ、どの生き物に生まれ変われるのかは過去の業(生前の行為)の質(正しく生きたかどうか)によって決められるものとね。

この輪廻と業の考え方…みなさんはどう思われるでしょうか。−10.6.27

 

 

慣習と日常(インドの姿5)

インドは広大な国土に多くの民族を抱える国であることはお話しましたが、そのため多様な慣習や風習が日常生活の中に今も息づいているのがインドなのです。

たとえば、それぞれの地域にはそこの慣習法があるし、カーストなどの団体には独自に守らなければならない規定があるようです。そして、婚姻や相続などの「家族法」は、信仰する宗教により個別の法が制定されているらしいですよ。

裏返せば、それほどインドの人たちは慣習や伝統をお互いに大切に守り合っていることになる。

一見、雑多で統一性がないように見えますが、実際はそうではなく、そのような特質それこそがインドの文化や伝統の源流であって、そこが、わたしたちにとって理解できにくいだけと思いますよ。

インドの人々の信仰は純朴で、礼拝や儀礼などの慣習が、ごく自然に生活の一部となっており、また不殺生や非暴力の考え方にもつながっているのは、インドの人々が古くから持ち続けているヒンドゥーの宗教観(10.5.29)に涵養されてきたからじゃないかな。−10.6.21

 

 

多民族の統一(インドの姿4)

お釈迦さまの弟子が水を村の女性に求めると、身分の違いにより断られますが、仏教では身分の差別はないことを説き、のどを潤すことができたという話があります。

インドのカースト制は有名ですが、当時から身分制度は社会形態として確立されていたようです。それは職業や婚姻あるいは会食などの社交の場でインドの民衆に階級・身分として深い影響を与えてきました。もちろん、現代では憲法等で平等を保障され脱カーストの国家体制です。そして能力に応じ社会の先端に進出している人たちも沢山いることはご存じのとおりですね。

しかし、この広大な国土に雑多な民族をかかえるインドを語るとき、カースト制とヒンドゥー教が長い歴史のなかで果たした役割を無視することはできません。というか見方を変えると、この二つが複雑なインドの社会をまとめ、多民族国家のインドを形づくる基盤を与えてきたと言って間違いはないでしょう。そして全てを受け入れ、おおらかでエネルギッシュな国民性はこのような国だからこそ、はぐくまれていったと思います。−10.6.14

 

 

聖なるガンジス(インドの姿3)

ガンジス川に身を浸し昇る朝日に手を合わせ祈る人々。インドのこの象徴的な風景をあなたは何かで見たことがありませんか。

特にヴァラナシの街は、そこを流れるガンジスに一度でも身を浸し祈ると、この世での汚辱を洗い流すことができ、現世では我が身を浄化し、死後は転生することなく天上へ導かれると言われている場所であり、ヒンドゥー教徒にとって一生に一度は果たさなければならない巡礼の沐浴聖地になっています。たとえ、身を浸しながらここで最期(死)を迎えなければならないとしても、彼らにとっては至福なことなのです。

また、ここは巡礼の人々のほか、修行者、宗教学者などが集う都市で、古代でも今と変わらぬ様相であったようです。

お釈迦さまは、商人の力が台頭し部族社会から国家社会へ移行する、めまぐるしいインドの変革の過渡期にあって、自らの教え(仏教)を、主に有力者の多い都市部へ広めるべく、あえて聖地ヴァラナシをめざして最初の説法の足を踏み出したと伝えられています。−10.6.7

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ヒンドゥー教(インドの姿2)

神々の国は神話の国。神話の物語は往々にして人間以上にドラマチックな展開を見せるものです。

インドの神々も例外ではありません。そのような神々だからこそインド人はなおさら親近感をいだき敬愛して止まないのです。しかし、その底流を流れる思想は古代インドから続いている「不変の原理-09.12.27-」の思想なのです。

その思想が人々の中で受継がれていく長い間に、具象化されて信仰の対象(ヒンドゥー教)になったのでしょう。それはお釈迦さまが生まれる以前からインドに流れていた民族宗教の姿と言えるでしょうね。そのようなインドにお釈迦さまは仏教という思想をおたてになったのです。

仏教はインドにおいて、現在インドの大多数の人々が信仰しているヒンドゥー教に取って変わることはできなかったのですが、そのすそ野はアジアに広がり発展し、世界の三大宗教の一つになって行ったのです。−10.5.29

 

 

神々の国(インドの姿1

人間は非常に弱い存在なのです、自然に対しては。それだからこそ、人は本能的に自然の脅威を恐れ、自然の営みに畏敬の念を持つものです。その対象も太陽、雄大な山、大河であったり色々です。

昔の人たちはその畏敬の念を信仰の対象として崇めることで、それらの対象(自然)の怒りを鎮め、豊穣と安寧を得られると信じていたことは容易に想像できるでしょう。特にその対象が天候や川などのように、農作物の出来不出来を直接左右するものであれば、なおさらのことですよね。

それは、どの国であろうと同じことで、人間はその対象を神として信仰の対象にしてきたため、世界中にいろいろな神が生まれ宗教が生まれたのです。

その中でもインドはまさに神々の国。インドの民衆はいろいろな神を深く信仰してきました。その深さはと言うと、長いインドの歴史のなかで、民衆の生活に切っても切れないほど根をおろし、今日のように科学の発達した現代に至るまで綿々と続いている、それがインドの側面であり姿なのです。

インドは、アジア人の宗教の源泉であり、わたしたち日本人が忘れかけている、強い信仰心の姿を呼び覚ましてくれます。−10.5.22

 

 

徹底した戒律(六つの思想6)

仏教にも、殺さない、ウソをつかない、みだらなことをしないという戒がありますが、それらを徹底的に守ることは非常に難しいことになりますよね。だって、わたしたちは生き物を食べて生きている訳ですし、方便としてのウソもまったくつけないとしたら、「バカじゃないか?」と言われそうだし、まして男女の仲はプラトニックラブで終わるものではないでしょう。

しかし、それら戒を徹底して守る宗教(ジャイナ教)が当時のインドに生まれました。

いろいろな思想が花開いたけれど、その厳しい戒律のため、かえって散ることなくインドで今日まで続いているのです。

当時のインド人は、昔から言い伝えられている恐ろしい輪廻の世界から、どうすれば解脱できるのだろうかという「答え」を真剣に探していたのではないでしょうか。そこで、色々な思想がその「答え」として花開いたのですが、この宗教はほかの五つの思想と違って、肉体を統制する心を鍛えようとした点でしょうね。

「死んだら終わりで何もない、この世はなるようにしかならないから、楽しく暮らせばいい。」などと言うのは、当時のインド人にとって気休めの思想でしかなく、納得のいく「答え」にならなかった。なによりも心のありかたを大切にするインド人だから…。−10.5.15

 

 

宿命の申し子(六つの思想5)

あなたは宿命(運命)を信じますか?

わたしたちは両親からこの世に生を受けつぎ存在しています。自分一人で生まれたくて生まれたのではありませんね。自分自身ではどうしようもないこのような事柄を宿命というならば、わたしたちは宿命の申し子のようなものです。

そして、死ぬ時も宿命の申し子として誰ひとり逆らえず死ななければならない。もっと言えば、地球上の生き物は勿論、山河だって宇宙の宿命に従って存在しているような気がします。

…と、まあこのように考えた人もいたと思います。人生すべてが宿命に支配されていて、努力で人生を変えられると思っているかもしれないが、その人の能力も努力も所詮はもともと定まっていた宿命だったとね。

わたしたちの生死は自分で決められることができないにしても、生きて行くことそのものが宿命に操られているなんて、ちょっと奇妙な考え方と思いませんか。それって、わたしたちの存在や行動をすべて宿命のせいにすることですから。

生きるとは、全ての結果を宿命や運命のせいにすることなく、自分に責任と主体性を持ち、人生を良き方向へ歩んで行くために宿命と常に戦い、人生をより良く変えていくことでありませんか。それでこそ、生き甲斐というものであり、生きている証しなのではないでしょうか。

10.5.8

 

 

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疑いだすときりがない(六つの思想4)

人間というものは一人一人顔が違うように考え方もいろいろと違いますよ。万人すべてが認める善というものはそうあるものではありません。その中の一部の人が善でないと思っていれば100パーセントの善ではなくなるのですから。

善悪のほかに美醜などについても同じことが言えますね。つまり科学的実証によって得られない、人間の主観や心証を基準とした相対的なものは、はっきり白黒と言いきれないことになっちゃう。当時のインド人の中には、もの事には正確に結論づけられないものがあり、こうかも知れないが、そうでないかも知れないし、そうでないとも言えないなどとノラリクラリと結論を回避していた人たちがいました。なんでも疑うものだから結論が出ず、結局なにごとも解決できずじまいで進展が止まってしまいます。

こんな考え方を社会に持ち込まれると実生活が動かなくなりいろいろと不都合が生じてしまいますから、現代では社会生活に関わることについてはいろいろと制度や規定などがあり社会生活が支障なく送られる仕組みになっていますよね。

ただ、個人的に自分は判断に迷ってばかりで決断できないと悩んでいても社会はそこまで保証してくれませんよ。自分が正しいと思ったら、迷わずに自分を信じて行動に移すべきですね。かりに失敗したとしても、なにもしないより人間として成長できるのですから。−10.5.1

 

 

善悪などない!?(六つの思想3)

善や悪を否定した人もいますよ。当時のインドの虐げられた社会に生まれた歪んだ極端な考え方のような気がします。

「善とか悪とかは、なにを基準とするのか。宗教や道徳や社会の規範なのか。それとも心の価値基準なのか。いずれにしても善悪は人間や人間社会に特有な基準であって、本来この自然(宇宙)にはそのような基準など存在しない。

穏やかな日がよくて嵐の日がよくないというのは人間が勝手に決めたこと。自然の大災害や自然の恵みそのものが善とか悪とかというものではないと同じように、人間が悪を働こうが善を為そうが、それは人間の勝手に為せるわざで、自然の側からすればそこに善悪は存在しない。

そうであれば宗教や道徳や社会の規範、心の善悪感などは、本来ないはずの善悪の基準を対象としていると言わざるを得ない。

いわんや、善をなせば善果(よい結果)が生じ、悪をなせば悪果(わるい結果)が生ずるとは根拠のないナンセンスなことだ。いくら悪事を働こうが一向に幸せそうな人がいると思えば、いくら善を施そうが、非運で不幸せな人もいることがその証拠だ。」

以上のように考えたのではないでしょうか。

しかし、このような考え方はとても正しいものとは思われません。悪を働いてもよいのだというような間違った方向に行く非常に危うい思想ですね。―10.4.24

 

 

快楽主義(六つの思想2)

古代インドの色々の思想はそれまでの輪廻思想を否定した思想でもあったのですよ。

「因果応報の輪廻はウソである。人は死とともに終わるのであって、永遠に続くものがあるとしてもそれは宇宙や肉体を構成している物質であり、決して人の生き方の良し悪しが来世を決定するということはない。」とね。

であれば、一度しかない人生、宗教の戒律や社会の規律や道徳に服従するよりも自分の利害や富を優先し、面白可笑しく楽しく生きたほうがよっぽど得であると考えてもおかしくありませんね。当時のインドの虐げられた階層の民はそう思ってもおかしくありません。

この考え方は、悪を犯して権力や富を手に入れても結果として恐ろしい輪廻とは関係なくなるのですから、一部の悪人や権力者に支持されそうな都合のいい思想でもあったと思います。

さて、今の日本の社会に目を向けて見ても、社会の規律(法規範)を破る人は少ないにしても、宗教的道徳的考え方(規範)を無視する風潮があるような気がしてなりません。これは戦後の自由・個人主義の社会での現象であって、快楽とか唯物の考え方によるものではないにしても、わたしたちの社会もわたしたち自身もどこか快楽主義に支配されているような気がしないでもありません。みなさんはどう思われますか?―10.4.17

 

 

唯物論(六つの思想1)

古代インドの色々な思想のなかに唯物論をとなえた人がいました。

唯物主義は「人間は肉体も心も所詮は原子の集まりからできた物」であって、死は「物」の化学変化にしか過ぎないと考えるのでしょう。死後の世界は論外なことであって、人間は生きている間だけが価値がある「もの」であり、死んだとたん単なる「物」にかえると…。

「人は死ぬばゴミになる」と言った方がいましたが、人は死とともに魂(心)も消滅して、肉体も死とともに朽ち果てるしかないゴミのようなものだということなんでしょうかね。

しかし、人間と言うものは、親しき人が死ぬと、いくら「物」であっても、敬意をもって丁重に葬り敬慕の思いを忘れないものです。決してゴミだと思い切れることが出来ないのが普通です。

唯物主義が極端になると、魂(心・精神))の存在を軽視し、「物」だけを価値あるものと考える傾向があるようです。死ねばこの世から消え忘れさられていくもの、であれば生きている限り「物(財貨など)」だけを求め、「物」のことしか考えられない我利我利亡者になってしまう…。

そのような人生はつまらないと思いませんか。―10.4.10

 

 

色々な思想が花開く(インドの思想8)

古代インドの思想は、同じアジアのわたしたちに長い歴史を経ていろいろと影響を与え今日の宗教観のもとになったことは否定できませんね。たとえば現代の修行とか禅とか輪廻の考え方など…。

しかし、人間の思想はいつまでも同じ場所に同じように留まってはくれません。どこの国でもいつの時代でも同じですが、社会が不安定になったり荒廃した際には、民衆の力とそれを支える新しい宗教が台頭するものですよね。

古代インドでも厳しい階級制度のなかではありましたが商人などの民衆の力が増大するに従い、これまでの思想をもっと自由に発展させたり新しい考え方をする人々と思想が現れましたよ。ちょうど仏陀が誕生する頃…そう、古代インドでは色々な思想が花開くのですね。

なかでも民衆に支持された思想(宗教といってもいい)はというと、やはり民衆にもわかりやすい、民衆のためになるというか、そう言うものでしたよ。―10.4.3

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苦行・難行・荒行(インドの思想7)

自らを極限状態に置いてエクスタシーを体験することで思い浮かぶのは苦行・難行・荒行の極限状態でしょう。

特にそのような修行の条件として、禁欲の世界に身を置くことが大切になります。いくら修行をしたと思っても、一方でだらしのない生活をしていたのでは、修行の意味がありませんからね。

つまり修行者は日常の生活を捨て(出家)、自らを厳しく律し、苦行や瞑想(ヨガ)などの修行を積み重ねることで、自我を捨て去ろうとしたのです。

自我意識を完全に捨てることのできた修行者はエクスタシーにより、真に人間の能力を超えた力を得ることができて、そのような人間こそが宇宙(の原理)と自己(の本質)の一体化の境地を得ることができると古代のインドの人たちは信じていたのではないでしょうか。

だからこそ恐ろしい、輪廻の世界からの自己の解放(解脱)を修行の中に求めていたのです。10.3.28

 

 

エクスタシー(インドの思想6)

たとえば、ある状態に陥った人間が朦朧とした意識の中で経験するエクスタシー(神秘体験)の話を聞いたことはないだろうか。あるいは、自らを極限状態に置き、ふだん経験することのないような精神状態を得ようとする人のことを。

わたしたちは、自我意識の中で生活をしていますね。つまり、人と接触するときは常に相手を意識し、気をつかい、比較したりして。それは自己を中心とした我の意識があるからであって、もしそのような自我意識がないなら、とても社会生活を営んでいき難いですね。

古代インド人(特に修行者)は、永遠に繰り返す生まれ変わり(輪廻)から、自分を解き放ち、宇宙と一体化するには、まずそのような自我意識を絶たねばならないと考えたのではないかな。そして、宇宙と自己がまさに一体化しているのだというエクスタシーを求めたのではないかと思うのです。10.3.22

 

 

宇宙と一体化??(インドの思想5)

さて、恐ろしい永遠から逃れる方法をお話する前に、古代インド人の宇宙に対する考え方を思い出してくださいね。

宇宙から張り巡らされた宿命の糸・恐ろしい永遠(束縛)は宇宙に存在する「もの」にとって逃れることはできない。しかし、存在する「もの」は生まれ変わり永遠に変化し続けるけれども、その「もの」も不変の原理を持った宇宙の一部であることに変わりはない。(09.12.27「不変の原理」参照)

つまり、我が肉体はその束縛から逃れることのできない「もの」であるが、その「もの」(我が身)も不変の原理(根源的な原理)で動かされている宇宙の一部であると古代インド人は考えた訳ですねぇ。

そして、そこに束縛から逃れられる(自由になる)糸口を求めたのでしょう。

束縛から自由になる方法はただ一つ、単なる「もの」でなく、宇宙そのものになればよい。なぜなら、宇宙と同じ根源的な原理で繋がっている「もの」である以上、宇宙と一体化になることは不可能ではないと考えられるから。10.3.18

≪宇宙と一体化??う〜ん。なんのこっちゃ。訳わからんこと言ってんじゃないか?≫【このブログの頭で言っているように、気まぐれの思いつきブログ、ですので深く考えないで気軽に聞き流して下さいね。】

 

 

恐ろしい永遠(インドの思想4)

死んで生まれ変わることは、その主体は永遠に生まれ変わりながら存在していることになります。

しかも前世の行いの結果により何に生まれ変わるのかわからないとしたら、どうでしょう。最悪の場合人間でなく獣や虫になるかもしれないとしたら…。

人は清く正しく生きたいと思っても、どうしても金とか地位名誉に動かされ醜い争いをしてしまう生き物です。カースト制社会で生きていた古代インド人は、宿命とも言うべきそのような人間の性(さが)を知っていて、生まれ変わりを恐ろしい永遠と捉えていたのではないでしょうか。そして出来ればそのような永遠から逃れたいと思っていたに違いありません。

しかし、どうすれば恐ろしい永遠から逃れることができるのでしょうか。―10.2.27

 

 

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結果は行いによる(インドの思想3)

人は生まれ変われるものなら、もっと美人に生まれたい。金持ちの家に生まれたい。もっと頭のいい人間に生まれたい、と普通は思うものです。それが人間ですから。しかし、中には、もう人間には生まれたくないと思う人もいるでしょうし、小説にあるように「わたしは貝になりたい」と思う人もいるでしょう。人は幸せになりそうなものを願い、嫌なもの苦しいものは避けたがるものです。人の生きざまは、まさにそうなのです。

人生で幸せになるには、その人の生き方に左右されると考えられます。結果は行いによる、これは当然のことでしょう。しかし、現世の結果は前世の行いにより、来世の結果は現世の行いにより決定されているとしたら、どうでしょう。生まれ変わりを信じた古代インドの人々は、結果は行いによることを、現世はもちろん、前世から来世へ続くものとして、信じていたのです。―10.2.2

 

 

生命の連鎖(インドの思想2)

わたしたちはこの世に生まれ存在していることを普段意識しないでしょう。

しかし、わたしたちの体はこの宇宙の物質から構成された生命体として存在しているのです。そして、わたしたちの体はいずれ死に行くものであるけれど、肉体は物質として宇宙に還っていくのです。その連鎖はわたしたちの親に遡り、そのまた親に遡る…。また、心(精神)も肉体に付随するものであれば、肉体と同じく連鎖を過去から未来にたどると考えられませんか。つまり滅びては生まれると。

古代インド人は、もちろん現代のような生命科学の知識は持っていないけれど、命あるものは死んではつぎつぎと肉体と共に生まれ変わると考えていたのでしょう。―10.1.21

 

 

不変の原理(インドの思想1)

「この世界・地球(宇宙)は変化するものであるが、それを動かしている不変の原理がある。わたしたちを含む万物も変化するものであるが、その万物にも個々に不変の原理を持っている。そして、宇宙と万物はこの不変の原理で結ばれている。」お釈迦さまが生まれる以前のインドでは、そのように考えられていました。

解りにくい説明ですが、万物を生み、わたしたちを生んだこの地球、生命を誕生させ育むこの地球を考えるとき、壊れゆくわたしたちではあるけれども、自己と宇宙の一体的な繋がりを思うことはありませんか。

そして宇宙も万物も同じ不変(根源)的な原理で動き動かされているのではなかろうかと。―09.12.27

 

 

絶対者?(仏のおしえ2)

すべてこの世は神により創り出され支配されていて、神を絶対者とするのはキリスト教なんだけど、

お釈迦様は人間とはどのような存在なのか、どのように生きていけばよいのかを悟り、人々にその教えを説いて一生を終えられた尊者であっても、神のような絶対者でないのです。

いわば、キリスト教は神様が中心であるけれども、仏教は人間が中心である宗教といえるでしょうね。わたしたちが生きていくための仏の教え、それなのに仏教はなんとなく取っつきにくく、自分には関係がないと思っていないでしょうか。

ひょっとしたら今のご時世どうすればよいか、ヒントが仏教に隠されているかも…。―09.12.23

 

 

生きる道(仏のおしえ1)

お葬式、法事、お墓…仏教の印象は死にかかわり、なんとなく暗いイメージをもっている人が多いですね。しかし、本当は違いますよ。どう生きればよいのか、どうすれば苦から救われるのかという、まさに生そのものにかかわる問題を扱う思想、それが仏教といっていいのです。だから、暗いどころか、生きる道を照らしてくれる光明なのです。

思想といえば西洋思想に現代は影響されまくっていると思われる方、どっこい、それも違いますね。近年は、西洋思想にないもの、あるいは西洋思想の欠落をうめるものとして東洋思想とりわけ仏教が注目されているのを知っていましたでしょうか。―09.12.18

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ホームページ作成中

11月の下旬からホームページを作ろうと思い立った。というのが、ずっと以前本屋で見つけた成美堂出版の「無料でできるホームページ作り」柳井美紀著を買っていたからである。しかし、今日になってもまだ工事中である。見苦しいページがしばらく続きますが、ごめんなさい。60代半ばのボケ坊主のやること、どうなることやら。―091211

 

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